箸墓の被葬者
これが箸墓古墳ですね。
奈良の纏向遺跡の古墳群の中のひとつになります。
聖杯の形?前方後円墳です。
ところがはじめは円墳であったという説があります。
そうなると魏志倭人伝にでてくる卑弥呼の墓が円墳とされている記述と合致します。
宮内庁では被葬者は倭迹迹日百襲姫命であるとしています。
倭迹迹日百襲姫命とは第七代孝霊天皇の皇女であるとされています。
この倭迹迹日百襲姫命が神憑りになるという記述が日本書紀にあるのです。
卑弥呼は巫女であり神憑りになったと言われていますので、同じですが果たしてどうなのでしょう。
文献では・・・
崇神天皇に関する古事記の原文と日本書紀の現代語訳をあげてみます。
この天皇の御世に疫病(エヤミ)多に起りて、人民尽きなむとしき。ここに天皇愁へ歎きたまひて、神牀(カムトコ)に坐しし夜、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)御夢に顕れて曰りたまはく、「こは我が御心なり。かれ、意富多々泥古(オホタタネコ)を以ちて、我が前を祭らしめたまはば、神の気起らず、国も安平くあらむ」とのりたまひき。ここを以ちて駅使(ハユマヅカヒ)を四方に班ちて、意富多々泥古(オホタタネコ)といふ人を求めたまひし時、河内(カフチ)の美努村(ミノノムラ)にその人を見得て貢進りき。ここに天皇、「汝は誰が子ぞ」と問ひ賜へば、答へて曰さく、「僕は大物主大神(オホモノヌシノオホカミ)、陶津耳命(スヱツミミノミコト)の女、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)を娶して生みましし子、名は櫛御方命(クシミカタノミコト)の子、飯肩巣見命(イヒカタスミノミコト)の子、建甕槌命(タケミカヅチノミコト)の子、僕 意富多々泥古(オホタタネコ)ぞ」と白しき。
ここに天皇大く歓びて詔りたまはく、「天下平らけく、人民栄えむ」とのりたまひて、即ち意富多々泥古命(オオタタネコ)を以ちて神主として、御諸山(ミモロヤマ)に意富美和之大神(オホミワノオオカミ)の前を拝祭りたまひき。また伊迦賀色許男命(イカガシコオノミコト)に仰せて、天の八十びらかを作り、天神地祇の社を定め奉りたまひき。また宇陀の墨坂神(スミサカノカミ)に赤色の楯矛を祭り、また大坂神(オホサカノカミ)に黒色の楯矛を祭り、また坂の御尾の神また河の瀬の神に、悉(コトゴト)に遺忘(ワス)るることなく幣帛を奉りたまひき。これによりて疫の気悉(コトゴト)に息みて、国家安平くなりき。
御間城入彥五十瓊殖天皇 崇神天皇
5年 国内に疫病が流行り、国民の半分くらいが死んでしまいました。
6年 百姓は流浪したり反乱を起こしたりして、その勢いは徳を持ってして治めようとしても難しいほどでした。
それで朝夕天神地祇にお祈りいたしました。これより先、天照大神・倭大国魂の二神を天皇の御殿の内にお祀りしておりました。そしてその神の勢いがすごいので畏れおおく、共に住むものは不安になり落ち着かなくなりました。そこで天照大神は豊鍬入姫に託し、大和の笠縫邑に祀りました。そして堅固な石の神籠(ヒモロキ)を造りました。また、日本大国魂神は、渟名城入姫命に預けて祀られました。ところが、 渟名城入姫命は、髪が抜け落ち体が痩せてお祀りすることができませんでした。
7年春2月崇神天皇はおっしゃいました。
「昔、私の皇祖は鴻基(皇位)を開いた。その後は聖業逾高・徳の高さで国を治め、王風轉盛・風格もあり立派だった。思うに、私の世代になって災害ばかりおこる。おそらく朝(ミカド)に良い政治が行われていないから、天津神・国津神が咎を与えているようだ。占いをして、災いを起こす原因究明をしよう。」
天皇は神淺茅原(桜井市笠の浅茅原)に行って、八十萬神に占いで問いかけました。
このときに倭迹々日百襲姬命が神がかりをして言いました。
「天皇よ。 なぜ国が収まらずに憂うのでしょうか? 私を敬い、祀れば、必ずや国は収まり平和になりますものを。」
崇神天皇は問いかけました。
「お教えいただいているのはどこの神様でしょうか?」
神は答えた。
「私は倭國の域内にいる大物主神だ」
神様のお告げを得て、教えの通りに奉りました。しかし、それでも効果がなく、天皇は齋戒沐浴して、宮殿を清め、真摯にお祈りをなさいました。
「わたしは、お教えの通りにいたしましたが、いまだに願いは聞き届けられません。ご神徳でどうか夢で教えてください。」
するとその夜の夢で、一人の高貴な人物が現れ、宮殿の入り口に向かって立って、大物主神であると名乗られました。
「天皇よ、 憂い悲しんでいますね。国が治まらないのはわたしの意思なのですよ。わたしの子供である大田々根子に私を祀らせれば、すぐさま国は収まり平穏になるでしょう。また海外の国も従うでしょう。」
秋8月7日。倭迹速神淺茅原目妙姬と穗積臣の遠祖の大水口宿禰と伊勢麻績君の三人が同じ夢を見て、天皇に奏上しました。
「昨夜、夢の中に一人の貴人が現れてこうおっしゃいました。」
「大田々根子命を大物主を祀る主とする、市磯長尾市を倭大國魂神を祀る主とするならば、必ず天下太平となりますよ。と言いました」
天皇は夢のことを聞いて大変お喜びになりました。
そして国中に布告を出し大田々根子を探しました。するとすぐに茅渟縣の陶邑(大阪府堺市陶器山)に大田々根子がいるのがみつかりました。
天皇は自ら神淺茅原にお出向きになり、諸王卿と八十諸部も集まり、大田々根子にお尋ねになりました。
「あなたは、誰の子ですか?」
大田々根子は答えました。
「父は大物主大神、母は活玉依媛といいまして、陶津耳の娘でございます」
また「奇日方天日方武茅渟祇の娘でございます。」
天皇はおっしゃいました。
「わたしは、富み栄えるでしょう。」
すぐに物部連の祖先の伊香色雄を神班物者にしようと占うと「吉」がでました。他の神も祀ろうかと占うと「不吉」とでました。
11月13日、伊香色雄に命じて、物部は八十平瓮で神に奉るものを作りました。そして大田々根子を大物主大神を祀る主とし、長尾市を倭大国魂神を祀る主としました。その後に他の神を祀ってもよいかと占うと「吉」がでました。すぐに別に八十萬群神をお祀りし、天社・國社・神地・神戸といたしました。すると途端に疫病が止みはじめました。 国が収まり平穏を取り戻しました。五穀が実り豊作となり、百姓は活気を取り戻しました。
古事記と日本書紀では大田々根子の系譜が少し違う様です。
まあそれはいいのですが、崇神天皇の御代に、疫病が大変流行り、困った天皇は桜井市笠の浅茅原に行き、八十萬神に占いで問いかけをなさいます。
このときに巫女である倭迹々日百襲姬命もお供されていて、そこで神がかるわけですね。
倭迹々日百襲姬命
倭迹々日百襲姬の婚姻と死について、日本書紀には記述があります。
是後、倭迹々日百襲姫命、爲大物主神之妻。然其神常晝不見而夜來矣、倭迹々姫命語夫曰「君常晝不見者、分明不得視其尊顏。願暫留之、明旦仰欲覲美麗之威儀。」大神對曰「言理灼然。吾明旦入汝櫛笥而居。願無驚吾形。」爰倭迹々姫命、心裏密異之。待明以見櫛笥、遂有美麗小蛇、其長大如衣紐、則驚之叫啼。時大神有恥、忽化人形、謂其妻曰「汝不忍、令羞吾。吾還令羞汝。」仍踐大虛、登于御諸山。爰倭迹々姫命、仰見而悔之急居(急居、此云菟岐于)、則箸撞陰而薨。乃葬於大市。故時人號其墓謂箸墓也、是墓者、日也人作、夜也神作、故運大坂山石而造、則自山至于墓、人民相踵、以手遞傳而運焉。時人歌之曰、
飫朋佐介珥 菟藝廼煩例屢 伊辭務邏塢 多誤辭珥固佐縻 固辭介氐務介茂
はーい、何だかわかりませんね漢文だし。
簡単に訳しますと、
倭迹々日百襲姫命は大物主の妻となりました。
ところが大物主は夜にしか現れず、昼間は姿を現しません。
倭迹々日百襲姫は
「夜の暗がりではよく見えないので、あなたさまの麗しいお姿を昼間お見せください。」
と言います。
すると大物主は
「それではわたしは明日、あなたの櫛をしまう箱の中に入っていましよう。ですがわたしの姿を見ても決して驚かないでくださいね」
と申されました。
夜が明けて倭迹々日百襲姫は櫛の箱の中を覗いてみました。
そうすると美しく小さな蛇がいました。
倭迹々日百襲姫は驚いて叫んでしまいました。
「驚かないでと言ったのに」と
恥ずかしがった小さな蛇は麗しい青年のお姿になり、悲しげに御諸山に登って行ってしまいました。
あまりのショックに公開した倭迹々日百襲姫は女性器を箸でついて亡くなってしまいました。
倭迹々日百襲姫は大市(オオチ=大和国城上郡大市=奈良県桜井市北部)に葬られ、その墓は箸墓と呼ばれました。
箸墓には不思議な謂れがあり、昼は人が作り、夜は神が作ったそうです。
大阪山の石を運んで作られており、山からお墓まで、人が列をなして石を手渡しして運んだのです。
大阪山と言われている奈良県北葛城郡二上山の北側の山の石は、箸墓からは発見されていないそうですが。
この箸墓は御陵であるとして宮内庁が発掘をさせません。
2013年に研究者が何人か入りましたが、2時間程度だったといいます。
本格的な発掘調査をしなければ、何もわからないでしょう。
もしも卑弥呼の墓であれば魏からもらった鏡がでてくるはずです。
そうすればこの論争には決着がつくのですが。
永くなりますので、また検証を続けたいと思います。
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