愛川町八菅神社・龍の形の山おめめもあるよ

神社不思議話

龍の背にのぼる

八菅神社は10年位前に2回くらい来ています。

今回は何気なくこちらの方面にきましたので、いくことになりました。

ここはヤマトタケルにより山の形が龍に似ているということで、蛇形山と名付けられたそうです。

ここの階段をのぼることを龍の背にのぼると言うようです。

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気合

神社につきましたー。

かっこいい狛犬さんがいます。

ご神木ですね。

この辺から空気が違います。

じゃーん。

この階段を登った上に本殿があります。

つーか、プチ登山。

階段も滑りやすいので、気を付けないと。

私は途中休み休み登りました。

御手水場がある本殿少し手前のところで、一休みしました。

火渡りの儀式があるそうです。

そう、ここは修験道の霊山なのですね。

wikiより

中世に遡る関東でも有数の修験道の霊場であったが、慶應4年/明治元年(1868年)の神仏判然令で、神仏分離が行われ、さらには廃仏毀釈によって、神仏習合の修験は解体され、明治以降は郷社八菅神社となった。この地を拠点とした八菅修験は、正応4年(1291年)に熊野長床衆が峯入り修行をした巨大な碑伝(八菅神社蔵)が残り、天文21年(1552年)には、京都の聖護院門跡の道増がこの地に入峯した記録が残る。貞享4年(1687年)には聖護院末の本山派修験となった。中世には八菅山の神は「八菅山大権現」として祀られた。近世に至り、八菅山七社権現となり[3]、熊野権現を中心に、蔵王、箱根、男山八幡、山王、白山、伊豆走湯の七社権現を祀り、別当寺の光勝寺のもとに、本坊24坊、脇坊22坊が奉仕する修験者の一山組織をなし、修験集落として栄えた。峯入り修行は、八菅山と大山の間の峰々をたどる修行で、春の峰は2月20日から4月8日まで、秋の峰は7月20日から9月8日まで、いずれも49日間であったが、弘治3年(1557年)に35日となり、秋の峰は永禄3年(1560年)に中絶した。しかし、春の峰は明治5年(1872年)まで継続した。明治5年の修験宗廃止令によって、修験集落八菅山は消滅した。山内に多数居住していた修験者は還俗し、山麓で帰農した。この際、宝喜院など有力な15の院坊は足立原姓を名乗った。「鬼の子孫」としての誇りを伝えたのである。春の例大祭では修験道時代の名残で「火渡り」が行われている。 八菅山の縁起は天明6年(1786年)、文化6年(1809年)、天保11年(1840年)の三本がある。これらはいずれも、大宝3年(703年)の役小角の開基を説く。天保本によれば、日本武尊が東征の砌に、この山を「蛇形山」と名付けた。その後、役小角が峯入り修行に入り、不動・薬師・地蔵の三体の像を刻んだ時に、池の中から白菅八茎が生ずる奇瑞が起こったので「八菅山」と名付けた。和銅2年(709年)に行基が勅願所として七社権現の寺を建立したという。縁起や伝承には様々な異説が伝えられている[4]。近世の八菅山については『新編相模國風土記稿』(天保12年(1841年))に詳しく記録されている。修験集落八菅山の全貌については愛川町による報告書が詳しい

ということで、役小角も来たんですね。

大宝3年(西暦703年)修験道の開祖役の小角(役の行者)が日本武尊ほか6神を祀り修法を行った。

そのとき八丈八手の玉幡が山中に降臨し神座の菅の菰から八本の根が生え出たという。

お話が伝わっています。

不思議なことがおこったのでしょう。

でもここは起こるかも・・・

我々はしばらくそこで休み、いざ本殿に。

そこでいきなり、木々がバサバサと揺れ始めました。

風でバサバサと音を立て始め、葉っぱが舞い落ちました。

うわーーーーーきたーーーーーー。

神様ですね。

そして参拝をさせていただきまして、少しベンチで休みました。

本殿の写真をとったのですが、ぶれて前にもやもやがでていてだめでした。

4枚撮ったのですが、全てもわもわがうつってました。

 

近くにあった経塚をとりました。

くっきりとうつっていますね。

そしてまた本殿をとりました。

 

もわもわですね。

諦めました。

これが龍の右目、右眼池です。

結構ぜーはーしてしまいました。

お参りにいかれる方は、トレッキングシューズのほうがいいと思います。

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